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[ 坂本 龍馬 ]

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高久 嶺之介 教授
歴史学科

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Q1.NHK大河ドラマ「龍馬伝」における坂本龍馬は、平等な世の中を志向し、人情味にあふれ、学問はあまり熱心ではないが、剣術に優れた人物として描かれているようです。龍馬に関連する史料からわかる龍馬像とは、どのようなものなのでしょうか。

 私は専門家ではありませんが、坂本龍馬の全貌がわかる史料はないようです。ただ、書簡が多く残されていること、龍馬を知る人々によってその人となりが口承されたことが龍馬を知る手がかりとなっています。龍馬の人物像としては、人望があり、知らず知らずのうちに上に持ち上げられる人物で、人に好かれる要素をもっていたようです。あの激動の幕末の時代に藩を越えて動けたくらいだから、人望と行動力が備わっていないとそうはいかなかったでしょう。
 人の意見を取り入れるなど柔軟な考え方の持ち主であったこともうかがえます。もともと攘夷派であった龍馬は、文久2(1862)年の脱藩後、勝海舟に師事するなかで、海軍を作ろうという意見を取り入れることからも、自分の考え方に固執しない性格だったようです。
 そのほかにも、交渉能力にも長けていたようです。海援隊が起こした「いろは丸」事件では、紀州藩の船と衝突し、海援隊の船が沈没してしまいますが、龍馬の機転で航海日誌などをもとに、海援隊が有益になるよう交渉を進めたようです。また、好奇心が旺盛で舶来品など新しいものが好きだったようです。よく知られている写真には、幕末の時代にはめずらしく、靴を履いた姿で写っていますね。

Q2.龍馬が歴史上果たした役割、特に明治維新に果たした役割とはどのようなものだったのでしょうか。

 龍馬自身、自分が頂点に立つということは考えていなかったのはないかと思います。ただ、世の中を変えたいという気持ちは濃厚にもっていたと考えられます。
 「薩長同盟」については、史料が限られており、同時代の史料としては木戸孝允、すなわち長州側の史料が残っているだけです。また、薩摩と長州の軍事的同盟であっても倒幕同盟というような同盟ではないという見解も有力です。さらに、薩摩はそれほどこの「同盟」を重視していたわけではないという見解もあります。したがって、「同盟」というような強固なものではなく、「盟約」程度ではないかと考えられます。ただし、「薩長同盟」の性格がどのようなものであれ、薩摩と長州の関係を仲介した坂本龍馬の役割は大きかったでしょう 。
 大政奉還に関わった人物としては、横井小楠(松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った)、大久保一翁、勝海舟らが挙げられます。大政奉還は別段坂本龍馬の専売特許ではありません。しかし、後藤象二郎と結びついて土佐藩の藩論にしていく実行力は大したものだと思います。

Q3.「龍馬伝」は、岩崎弥太郎の回想という形で進められていますが、弥太郎とはどういう人物だったのでしょうか。また、龍馬と弥太郎は実際に交流があったのでしょうか。あったとすれば、どういうものだったのでしょうか。

 「龍馬伝」では、明治15年に岩崎のところに、記者が龍馬のことについて聞きに来るところから岩崎弥太郎の語りで始まります。これが、実にうまい書き出しだと思いましたね。龍馬が有名になったのは明治16(1883)年です。坂崎紫瀾(さかざきしらん)が高知県の「土陽新聞」に龍馬の伝記『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』の連載を書き、大阪の出版社から単行本が出版されるくらい人気がでた、その前年という設定にしているわけです。しかし、岩崎との交流については、幼少期にはなかったとみられます。龍馬率いる亀山社中が「海援隊」として改称し、経済的支援をしていた開成館長崎出張所(土佐商会)に、岩崎が着任した頃から交流が始まったことが史料からもうかがえます。その後、岩崎は政商として海運業の軍隊輸送を独占し、莫大な財産を得るようになりました。こうやって、歴史を通して二人の人生を見てみると、歴史というもののダイナミズムを感じることができますね。